「新自由主義と共産主義の共通点」について気にかかるところ

『新自由主義と共産主義の共通点』
新自由主義 新自由主義(しんじゆうしゅぎ)とは、政治や経済の分野で「新しい自由主義」を意味する思想や概念。日本では以下の複数の用語の日本語訳として使われている…

当初はこれに正面から反論するつもりでしたが、この間に自身の変化もあり、離党もありで視点が変わっていたので下書きのままでいましたが、改めて違う方向性で書き始めました。

共産主義=国有化という誤解があります

要するに財産すなわち資産を共同所有、つまり個人ではなく社会を構成する共同体全体の所有として管理し、経済的な格差を無くして平等な社会にしましょう、というような考え方です。
この資産には、モノの生産手段である工場や農場、そしてそれを運営する企業も含まれます。つまり、モノの生産手段(企業)を個人ではなく共同体、多くの場合は国家の所有とする、つまり国営企業として管理していく、という考え方です。
極論すれば、共産主義というのは、国家による生産供給手段の独占、ということが出来ます。

https://ameblo.jp/monzen-kozo100/entry-12692246977.html

ちょっとそこは引っかかるんですよね…
本来、生産手段の社会化を目指しているのであって、国有化とはイコールにはなりません。社会化するにおいて何も国有化である必要はなく、地方自治体の管轄とする公有でもかまいませんし、労働者協同組合などの形態などでも構いません、極論労働者同士が株式出資した株式会社でもいいわけです。

生産活動のために労働していない私人が生産活動のための資産を占有していることで搾取の構造ができている。すなわち生産手段を占有できる元手を持った資本家層が不労所得を得られる構造になっていることが問題になっているわけなので、この構造を切り崩せば事は足ります。従って必ずしも国有化が必要というわけではありません。

ソ連はこれを国有化しかないと決め打ちして国有化を進めた結果、計画経済により生産量を政府が管理・抑制してしまったために生産量を向上させる必然性を要しなかったことで生産性が伸びずに破綻していったとされます。当時のソ連には協同組合のような自主的な民間組織を構築する知識や技術は持ち合わせなかったため、そこへと行き着いた結論なのかも知れません。

そもそも計画経済は需要量を先読みした上で供給量を計画しようという前提にあるため、需要量を正確に先読みできるという前提がまず間違いでしょう。
例えばあたしは必要としている1日分米の量は2合です、2合で3食分。ただ、他の人は1日3合以上必要な人もいれば、1合で1日分間に合うという人もいる。そんな細かいことを国が逐次把握できる由もないため、需要量を正確に読めるわけでもなく、供給量を厳密に決める計画経済が成り立つわけもない。

ただ、今の共産党は従来想定されていた共産主義における偏見の一つである一般的な全体主義とは毛色が違い、個人主義に振り切った価値感を押しつけるという全体主義という異質なもの。端的に言えば、個人主義の方が正しいので「皆それに従うべき」という全体主義が生じます。
国家どころか地域共同体などに対しても家父長的な抑圧機関という認識で破壊的な見方をしだしたので、ちょっとそれはないんじゃないの?と思っております。

科学主義であるべきということが原因で弱肉強食のロジックに

さて、この共産主義の対局として語られる(新)自由主義ですが、実はこの自由主義経済を放置すると、最終的には共産主義的な経済社会へと移行します。
何故かというと、何にも、誰にも管理されるすることもなく、自由主義経済を放置すると、弱肉強食による淘汰で、巨大企業による生産・供給手段の寡占・独占に至るからです。
つまり、究極まで進んだ自由主義経済社会と、共産主義社会において、両者の違いは「誰が生産供給手段を独占するか」の違いしかありません。

共産主義の場合は国家が、自由主義経済社会(最終形態)では個人(巨大企業=資本家)が、生産供給手段を独占するのです。自由主義経済の特徴、あるいは前提は、多数多様な企業や個人が自由に経済活動、すなわちモノやサービスの生産や供給、そしてそれらの消費を行うことです。

しかし、国家にしろ巨大企業にしろ、生産供給手段が何者かに独占された時点で、自由市場経済というものは実質的に消滅します。何故かと言えば、生産供給手段が独占された時点で、自由経済の特徴であり前提でもある多数多様な企業や個人による自由な経済活動も、その中で起こる自由競争もなくなるからです。

さらに、共産主義における私有財産の否定は、生産供給手段のみならず、個人所有の金融資産、つまり私たちが持つ貯蓄なども含まれるわけですが、(新)自由主義においても、特に労働者庶民にとっては、実質的な意味で私有財産の形成が困難になってしまいます。何故かというと、生産供給手段の寡占・独占と並行して、企業資本家の力が強くなりますが、そうなると、当然彼らは利益を最大化しようとします。

労働者の賃金は、彼らにとってはコストに過ぎませんから、企業資本家が利益を最大化しようとすれば、コストである労働者の賃金は極小化され、貯蓄が困難になります。
つまり、実質的な私有財産の消滅です。

あれ?
すでにどこかの国では、そのような状況が起きていますヨネ。
つまり新自由主義者の言うように、自由市場経済を何の規制もなく放置すると、最終的には、共産主義のように自由競争に基づく自由な経済活動は消滅し、労働者や庶民が私有財産すら実質的に消滅してしまう、ということになるのです。
何とも皮肉な話ですよね。

https://ameblo.jp/monzen-kozo100/entry-12692246977.html

何にも、誰にも管理されるすることもなく、自由主義経済を放置すると弱肉強食による淘汰で、巨大企業による生産・供給手段の寡占・独占に至るのは当然です。本来これに待ったをかける方法の一つが共産主義だったわけなのですが…
しかし、現実問題として唯物論に則り合理性を追求した結果、弱肉強食の淘汰を推し進めることになり、その結果として寡占・独占に至るのは避けて通れないでしょう。あくまで競争して勝ち残った結果がそれなので。問題を引き起こしているのは唯物論が正しい論理体系だと過信している所にあるのではないかと感じます。

最近はフェミニスト主導の「キモいオジサン」ヘイトにも乗っかってしまっている有様で、これもナチスのユダヤ人政策同様、社会ダーウィニズムによる劣等因子排除の動きをすることで皮肉にも市場原理主義と同様の弱肉強食を実現させてしまう所に至ってしまっています。

そもそもマルクス自体も広義には社会進化論の中に自発的にダーウィニズムが包摂されてしまっているため、適者生存という優生思想の論理に飲み込まれてしまっている問題があるのは否めないでしょう。
端的に言えば進化論の論理で「資本主義そのものが生存競争に敗れて淘汰される」と説いているのですから。

ここを突いて適者生存の論理になり、何でも進化論の論理でより合理的に優秀なものに集約される適者生存という根拠を元に劣った者を排除せよという流れなのでしょう。
これはハイエクが批判している「科学主義」の問題が突き刺さるわけでもあります。

同族になってしまったのは新自由主義勢力に乗っ取られしまったため

自由を追い求めた挙句、最終的に行き着くのは究極の不自由。
まるで寓話のようです。

本当の意味での自由経済、すなわち多様な企業や個人による自由で活発な経済活動、その環境を維持し、発展させるためには、自由市場に規制を加え、強者を抑えて弱者を保護する必要があるのです。

例えば、自然環境保護のために、自然に人手を加えて環境を保全するのと同じで、本当の意味での自由経済を維持するためには、法律や規制を大企業や資本家個人にかけ、その自由を抑制することが出来る国家が適度に介入し、巨大企業の横暴を抑制し、中小零細企業を保護する必要があるということです。

逆に、市場に対する国家の規制を否定する新自由主義者は、実は共産主義者と同根であるということが解ります。
なぜなら、弱肉強食の自由放任市場の容認は、巨大企業の独占市場到来を許容することと同じであり、独占主体が企業か国家の違いだけで、彼らの望む市場の姿は、共産主義者が望む姿そのものだからです。
新自由主義とは、すなわち資本主義が闇堕ちした姿そのものであり、共産主義に繋がるものです。
それも旧ソ連に見るような、庶民労働者にとっては悪夢のような共産主義です。
新自由主義者は共産主義を忌み嫌います。 しかしそれは、単なる同族嫌悪に過ぎないのです。

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ご指摘の通り、強者を抑えて弱者を保護する必要があるので、本来は共産主義も市場競争で選別するパラダイムに抗するものとしてその担い手の一員になるはずのものでした。

新自由主義者は弱肉強食・適者生存というパラダイムを絶対律としている所があるため、タテマエとして平等を掲げる共産主義とは不倶戴天の関係になるのは必然です。
そもそも国有化という前提が間違いということが分かった以上、独占市場の望むという前提も崩れています。中国ですら民間企業が多数存在していますし、ご指摘の部分に関しては矛盾点が出てきます。

自由を追い求めた挙句、最終的に行き着くのは究極の不自由

これは至言です。
自由であるがゆえに自由な意思決定によって合理的な意思決定を目指した結果
ムダなものは排除せよという体で不自由が作られていくという皮肉な結果を導く。
マクロ的視点を無視したミクロ経済学の合理的選択理論が発端だと見られます。
その先にあるのはミクロ的な合理性を追求した先にあるのは「合成の誤謬による画一化」です。

実の所、あたしが日本共産党が新自由主義のつながりを認識できたのは、
財政政策が新自由主義側を同じ論理に立っている実態があることを認めたことにあります。
日本共産党が激しく公共事業を憎んできた理由は二つあり、
①税財源論と財政均衡主義に立っているため、福祉政策の予算を捻出するために、他の予算を削減する必要があったこと。
②公共事業(特にインフラ関係)が自民党の土建業界との癒着による利権政治の象徴として指弾しようとしてきたこと。これは即ち自民党を攻撃するための大義名分としてきたことにあります。

MMTをかじったことで、①に縛られる必要性がなくなったことで、一定レベルの視野狭窄が解消された部分が大きいでしょう。財源が限られているので「一方をやるなら他方を犠牲にしなければならない」というゼロサム思考から「必要なら両方やればいい」というプラスサム思考に移行できるのは大きな収穫と言えます。

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