無知でない人が「人権はない」という認識を示す怖さ

「人権」という言葉の危うき乱用―”170cmない男に人権ない”暴言の本質(古谷経衡) - エキスパート - Yahoo!ニュース
人気プロゲーマーのたぬかな選手が、大学生風のUber Eats配達員から連絡先を聞かれたことに関して、該男性の身長目算が165cm程度であったことから、「165はちっちゃいね。ダメですね。170ない

「キモいオジサン」や「キモオタ」には人権はないのか

仁藤夢乃の「キモいオジサン」はたぬかなの発言と同根の問題

大きく違うのは仁藤夢乃は「キモい」という「抽象的な言葉」を「ワイルドカード」のようにして万能に駆使することにあります。これは基準が如何様いかようにでも変わってしまうため、極論として一つでも見劣りするものがあればキモいと言えるでしょう。ならば一つでも欠点があれば人権はないということになり、人権享受の要件が非の打ち所がない人ということにもなります。

仁藤夢乃に付和雷同する日本共産党も然り

中野区議の羽鳥だいすけを筆頭に「キモいオジサン」「キモオタ」という容貌をあげつらったヘイトスピーチがとにかく酷く、まるで容貌の悪い男には人権はないという言いようでした。

オタク=キモいという構造も30年前の「オタク」の「ステレオタイプ」という旧いイメージで語られているものだから、容貌が悪いことが前提になっています。つまりオタク文化の萌え絵は女性に相手にされる可能性が皆無なブサイクどもが群がって性的搾取をしているという構造で敵視しているわけなのです。

共産党がこの方向性にひた走るのは、ルサンチマンを抱えた女性から票を確保して選挙で優位に立ちたいという戦術的なものであろうとも思えます。いわゆる得票のターゲットに対する「選択と集中」です。
従って今の共産党にとって仁藤夢乃の位置付けは得票のターゲット層としてのペルソナ(=ターゲット層のモデル像)というわけでもあるのです。得票効率のいいターゲット層を狙うために一応マーケティングはしているわけですね。

問題なのは日本共産党の方

問題は日本共産党はたぬかなとは違い、人権に関して無知なわけがないのです。
そこがたぬかなとは全然違う点であるし、仁藤夢乃にしても共産党が後ろ盾になるぐらいだから、当然に一定水準の知識があり、無知ではないと確信している。
つまりすべての人に享受される普遍的な権利だとは認識している。それにも関わらず、それが言えてしまうのは、「キモいオジサン」や「キモオタ」は「『人間ではない』のだから『享受できる対象ではない』」と、つまり女性にとって所有ないし利用する価値を提供できないキモい男は人間ではないという考えがあるということになる。およそ「バケモノ」という認識になっているのだろう。

これは市場原理主義と優生思想が背景としており「需要がない」「遺伝子が劣っている」のであれば「排除することが正しい」と認識してしまっているのが原因であるが、その原因を作ったのは何か。

唯物論と科学主義が「優生思想を正しいものと」形作る

自然科学の論理に則った合理性こそが正しいものという認識を導いてしまうことにある。
反面自然科学の論理に則らないものは「観念論的なもの」として嘲笑の対象にまでしてしまうことになる。ひろゆき的に言えば「それ、あなたの感想ですよね?」というわけだ。
実は専らダーウィン、ダーウィンなのである。さしずめ「ダーウィン」の呪いである。エンゲルスの著書にして共産党が重視する主要文献の「反デューリング論」において頻繁にダーウィンの名が出る章がある。

実はマルクスもエンゲルスもダーウィンを正しく理解していない

従って共産党の理論体系から間違いがあったことになる。
ダーウィンは農産物や家畜の品種改良という人為選択を生業とする「育種家」というスタンスから、人為選択と対置する概念として自然選択というのを定義した。この自然選択というのは予め意図されたものでもなく、誰かから望ましいと思わたのでもなく、種が多様化して発展していったという視座に立っていたのが当初のダーウィンの論ではあったのだが、奇しくもそのダーウィンの主張がブレて「望ましい形質に変化できた者が残る」というような誤解を招く変節があることが問題でもある。
これはダーウィンが自説を受け入れてもらえるよう、当時のイギリスにあった進歩主義や植民地支配といった世相に迎合してしまった所が大きいようでもあるし、経済学のアダム・スミスの「神の見えざる手」やマルサスの人口論などにも影響された。
しかし、マルクスやエンゲルスを含め社会ダーウィニズムに立脚している者は人為淘汰の合理性を進化論による自然淘汰から見い出しており、主客が反転している。

マルクスの間違いは共産主義という『望ましい』とする社会への移行を望ましくない資本主義が生存競争に敗れて淘汰されることで実現されると考えているためで、これはダーウィンの当初の論である意図されない変化ではなく、「知識人による合理的な観点から『望ましい』方向に変化する」ということを前提とした解釈がなされていることにあり、それは自然淘汰ではなく「人為淘汰」である。

なお、進化と解されるEvolutionとは本来は進化を意味せず、「展開」を意味する。小さくたたまれたものを広げるようなものになる。

科学の力で望ましい社会を構築できるという科学万能主義の傲り

これはハイエクの批判が妥当と思われる
科学の力で望ましい社会となると、ゆくゆくは遺伝子操作も含めた人類の改良という領域にも足を踏み込むことにもなるだろうし、政治もAIに任せればよいということにもなる。AIに任せたら財政黒字化に対して最適化した予算案なども出せるだろう。もちろん合理性を第一にしているので人道的配慮は抜け落ちることもある。

そもそも『望ましい』とは何を以て望ましいのか正しく規定できると認識していること自体が大層な思い上がりである。
あたしには分からない。一時期考えていた『望ましい』も結局は「他人の期待を無限に受け入れる」というものでしかなかったので、これが正しいとは思えなかったし、『望ましい』を追求すればするほど疎外感で満たされるのである。

科学主義の問題は何でも理系脳で解決できるという思い込みがあるため、文系的な概念を無視しがちになってしまう所にある。だから平気で進化論という自然科学の論理で人を裁いてしまえるわけである。憲法の普遍的な人権概念は理解してはいるのだけども、それを自然科学の論理が先行するために飛び越える。これがこじれると「人権は競争を勝ち抜き社会的責務を全うする能力を根拠を以て証明した者だけが享受できる許可制のものである」という解釈に脱線しかねない。というか片足既に突っ込んでいると言える。なぜならばキモいオジサンは遺伝子が劣っているとして人間ではないという優生学に片足を突っ込んでいるからでもある。

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